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東京地方裁判所 平成10年(ワ)3392号 判決 2000年2月08日

原告

中山淳浩

右訴訟代理人弁護士

鈴木喜三郎

和田冨太郎

木之瀬幹夫

被告

シーエーアイ株式会社

右代表者代表取締役

龍忠光

被告

龍忠光

被告

龍惠子

被告

佐藤忠秀

被告ら訴訟代理人弁護士

佐藤彰紘

右訴訟復代理人弁護士

渡部直樹

主文

一  被告シーエーアイ株式会社は、原告に対し、一一九万七五九五円及びこれに対する平成九年九月二〇日から支払済みまで年一四・六パーセントの割合による金員を支払え。

二  原告の被告シーエーアイ株式会社に対するその余の請求並びに被告龍忠光、同龍惠子及び同佐藤忠秀に対する請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は、原告に生じた費用の五分の一と被告シーエーアイ株式会社に生じた費用の五分の一を被告シーエーアイ株式会社の負担とし、原告に生じたその余の費用と被告龍忠光、同龍惠子及び同佐藤忠秀に生じた費用を原告の負担とする。

四  この判決は第一項に限り仮に執行することができる。

事実及び理由

第一請求

被告らは、原告に対し、各自五三六万五一一三円並びに内金一五九万六三四六円に対する平成九年九月二〇日から支払済みまで年一四・六パーセントの割合による金員及び内金三七六万八七六七円に対する平成九年九月二〇日から支払済みまで年五パーセントの割合による金員を支払え。

第二事案の概要

一  本件は、被告シーエーアイ株式会社(以下「被告会社」という。)との間で年俸制による雇用契約を締結していた原告が、被告会社に対し、未払賃金の支払及び被告会社から一方的に労働条件を変更され退職を余儀なくされたとして不法行為に基づく損害賠償の支払を求めるとともに、被告会社の取締役である被告龍忠光、同龍惠子及び同佐藤忠秀(以下「被告取締役三名」という。)に対し、商法二六六条の三に基づく損害賠償を求めている事案である。

二  争いのない事実

1  被告会社は、平成八年二月一日に設立された情報処理システムに関する調査研究コンサルタント業務等を目的とする会社であり、被告龍忠光(以下「被告代表者」という。)、同龍惠子及び同佐藤忠秀(以下「被告佐藤」という。)は、平成九年当時被告会社の取締役であった。

2  原告は、平成九年四月一日、被告会社との間で、次の内容の雇用契約書を作成して雇用契約を締結した(以下「本件雇用契約」という。)。

(一) 雇用期間

平成九年四月一日から同一〇年三月三一日

(二) 就業場所

被告会社上野オフィス

(三) 仕事の内容

研究開発部事務章程の定めるところによる。

(四) 賃金

月当たり三六万五〇〇〇円(年俸六二〇万円)

(五) 手当

家族手当月額五〇〇〇円、通勤費は一か月定期代として支給

(六) 賃金支払方法

毎月二〇日締め、同月二六日銀行振込

(七) 昇給

年一回とし、年俸額について協議して決定する。

(八) その他

年俸制度とし、勤務形態は裁量労働とするため、就業時間、体憩の時間は定めない。原則として、年一回四月に年俸額につき協議のうえ決定する。なお、年俸制継続か月給制に変更するかを協議。定年まで契約更新。

ボーナスは業績還元方式を採用。ただし、五か月分/年(六月、一二月)を想定。

3  被告会社は、平成九年七月二九日に就業規則及び賃金規則の一部を改定し(以下、改定前の就業規則及び賃金規則を「旧就業規則」及び「旧賃金規則」、改定後の就業規則及び賃金規則を「新就業規則」及び「新賃金規則」という。)、新就業規則及び新賃金規則は同年八月一日より施行された。

4  被告会社は、原告に対し、給与又は賞与として次のとおりの支払をした。

(一) 平成九年四月ないし七月分給与

各月基本給三六万五〇〇〇円

(二) 平成九年六月賞与

七万円

(三) 平成九年八月分給与

基本給一六万五〇〇〇円

(四) 平成九年九月分給与

基本給日割分二万三五七一円

5  原告は、平成九年九月一九日付けで被告会社を退職した。

三  争点

1  未払賃金債権の存否

(一) 本件雇用契約で定められた賃金月額を期間の途中で変更することの可否

(二) 平成九年六月分未払賞与請求権の存否

(三) 欠勤控除の当否

2  予告手当支払請求権の存否

3  被告会社の債務不履行又は不法行為による損害賠償義務の存否

4  被告取締役三名の商法二六六条の三に基づく損害賠償義務の存否

四  争点に関する当事者双方の主張

1  原告

(一) 未払賃金

本件雇用契約に基づき被告会社から原告に支払われるべき賃金は、基本給月額三六万五〇〇〇円、六月及び一二月賞与はそれぞれ基本給の二・五か月分である九一万二五〇〇円であるのに、被告会社は新賃金規則により原告の賃金額は引き下げられた又は欠勤控除がある等と主張して、前記争いのない事実欄記載のとおり原告に対する六月賞与九一万二五〇〇円のうち七万円(未払額八四万二五〇〇円)、八月分基本給三六万五〇〇〇円のうち一六万五〇〇〇円(未払額二〇万円)、九月分基本給二三万一一六六円(ただし三六万五〇〇〇円に対する三〇日分の一九日の日割り計算による金額)のうち二万三五七一円(未払額二〇万七五九五円)のみを支払い、右未払額合計一二五万〇〇九五円の支払をしないので、原告は、被告会社に対し未払賃金合計一二五万〇〇九五円の内金一二三万一三四六円の支払を求める。

(二) 予告手当

被告会社は、新就業規則及び新賃金規則に基づき、原告に対し一方的に本件雇用契約の定める労働条件の変更及び賃金の引下げを主張し、これに服しないのであれば退職せよと迫ったものであり、被告会社の右行為は会社の事情により実質上の解雇をしたものと異ならないから、原告は被告会社に対し解雇予告手当として給与一か月分三六万五〇〇〇円の支払を求める。

(三) 被告会社の債務不履行又は不法行為による損害賠償義務の存否

原告と被告会社は本件雇用契約により、賃金は年俸制で年俸六二〇万円、月額三六万五〇〇〇円、六月及び一二月賞与合計一八二万五〇〇〇円、家族手当は月額五〇〇〇円、勤務時間については午後のみ勤務の裁量労働で就業時間及び体憩時間は決めない旨合意していたのに、被告会社は、就業規則及び賃金規則を一方的に変更し、同年八月一日以降、原告に対し新就業規則及び新賃金規則を適用するとして、勤務時間は午前九時から午後五時までとするとし、賃金も成果主義による出来高払いの月給制とする旨通知した上、原告に対して支払うべき賃金額を違法に減額し、前記(一)のとおり原告に対する平成九年八月及び九月の基本給の一部及び同年六月の賞与の一部を支払わない加害行為を行い、さらに、労働条件の変更は承諾しないとした原告に対し、変更に応じないのであれば解雇するとして、違法に退職勧奨を行い、原告が被告会社を退職することを余儀なくさせた。

よって、原告は、被告会社に対し、平成九年九月一九日付けで原告が被告会社からの退職を余儀なくされたことによる逸失利益として本件雇用契約に基づく原告の年俸額六二〇万円に、年三六五日に対する一六三日(三六五日から原告の被告会社での在職日数一七二日及び解雇予告手当相当日数三〇日の合計二〇二日を控除した日数)の割合を乗じた二七六万八七六七円及び慰謝料一〇〇万円の合計三七六万八七六七円の支払を求める。

(四) 被告取締役三名の商法二六六条の三に基づく損害賠償義務の存否

被告取締役三名は、被告会社の取締役として、慎重な計画に基づいて被告会社を経営し、雇用契約の締結にあたっては、労働者に不利益を与えないよう注意すべき義務を負うのに、悪意又は重大な過失により、杜撰な経営を行い、かつ、平成九年四月の原告との本件雇用契約締結の時点で、原告の入社後三か月の同年六月末の決算で被告会社の財政が危機的状況になることを予見し又は予見することができたのに、これを知り又は重大な過失により知らずに原告を入社させ、同年六月期の決算において財政を危機的状況に悪化させ、入社後四か月で原告の承諾し得ない労働条件に一方的に変更し、原告に対する給与及び賞与の支払を違法に減額し、退職を余儀なくさせた。

これにより、原告は、前記(一)ないし(三)の未払賃金、予告手当、逸失利益及び慰謝料相当額の損害を被った。

(五) よって、原告は、被告会社に対し、未払給与、賞与及び解雇予告手当合計一五九万六三四六円並びにこれに対する弁済期の後である平成九年九月二〇日から支払済みまで賃金の支払の確保等に関する法律六条一項所定のの(ママ)年一四・六パーセントの割合による遅延損害金の支払並びに被告会社の不法行為に基づく損害賠償として二七六万八七六七円及び慰謝料一〇〇万円並びにこれらに対する弁済期の後である平成九年九月二〇日から支払済みまで民法所定の年五パーセントの割合による遅延損害金の支払を求め、被告取締役三名に対し、商法二六六条ノ三に基づく損害賠償として被告会社に対する右各請求額と同額の金員を被告会社と連帯して支払うことを求める。

2  被告ら

(一) 未払賃金

(1) 賃金月額の変更

被告会社は、人工知能の一種である「シンクソフト」(入力データの中からある程度あいまいな質問にも回答したり、先に行った対話内容を記憶して成長するような対話システムとして実用的に使用できるソフト)を主力商品と位置づけていたが、その開発は、平成八年八月から被告会社の取締役に就任した黒川伊保子(以下「黒川」という。)が部長を務め、原告が所属する研究開発部が担当していた。しかし、被告会社が平成九年六月五日及び六日に実施を予定していた投資家向けのデモンストレーション当日になってもシンクソフトは完成せず、そのデモンストレーションは失敗に終わり、投資家からの投資が得られない状況となったこと等から被告会社の財政状況は同年六月以降急速に悪化し、倒産の危険もある状況となった。

そこで、被告会社において、財政状況を建て直し、かつ、成果の上がった従業員についてその成果に応じた給与を支給することにより従業員の勤労意欲を高め、顧客の要求に即応した製品開発をすることができるよう被告会社を活性化するため、賃金制度を成果主義に基づく月俸制の賃金制度に改定したものである。

賃金規則の改正により、従前原告に適用されていた年俸制は廃止され、平成九年八月以降原告の労働条件は月俸制に変更されたものであり、右以降原告は被告会社に対し年俸制に基づく賃金支払を求めることはできない。新賃金規則では、成果主義に基づく月俸制として従業員の受ける給与を、年齢給、職能給、業績給及び期待給により構成し、これらのうち業績給が当月の従業員の成果いかんによって基本額(職能給と同額)のゼロパーセントから五〇〇パーセントまでの間で支給される制度となっており、新賃金規則によれば、原告は、平成九年八、九月当時、年齢三四歳、職能三級三号で、年齢給月額一三万一〇〇〇円、職能給月額三万四〇〇〇円の合計一六万五〇〇〇円が基本給であり、同年七月度の業績評価は四四点であったから、職能給の四四パーセントである一万四九六〇円が原告に支給される八月分給与の業績給となり、その合計一七万九九六〇円が住宅手当及び家族手当を除く原告の八月分給与である。

(2) 平成九年六月分賞与

本件雇用契約において原告と被告会社間で合意した賞与についての業績還元方式とは、決算期ごとに税引前利益の三分の一の金額をボーナスとして従業員に分配し、利益が出なければ従業員にボーナスは支給されないものであり、被告代表者も、原告の採用時に、原告に対して業績還元方式について説明済みである。平成九年六月期の被告会社の決算においては、全く利益がなかったが、被告会社は、従業員の士気を高めるため、同月に特別に寸志を支給したものであり、原告は、平成九年六月の賞与請求権を有しない。

(3) 欠勤控除

原告は、平成九年八月二八日、被告会社に対し同月二九日から同年九月一九日まで被告会社の休日を除き一五日間体調不良により有給休暇を利用して欠勤する旨の休暇届を提出して欠勤したが、体調不良により二〇日も先の日まで休暇をとる必要性は認められず、原告自身午前中の理学療法士としての勤務先には出勤していた。そこで被告会社からは右休暇届は認められないとして出勤を指示したが原告は指示に従わず同年八月二九日から九月七日まで欠勤し、九月八日、原告は出勤して被告代表者及び被告佐藤は被告会社において原告と面談し、その際、原告が被告代表者を責任者とする第一開発部に配置替えになったこと及び被告会社としては原告を必要としているので今後は被告代表者の指示に従って業務を行うべきこと、及び就業規則の改定にともない裁量労働制は廃止されたので改定後の制度の下で勤務を継続して欲しいことを伝えたが、原告は自分は黒川以外の者の指示には従わないと述べ話合いはまとまらなかった。原告はその後も欠勤を続け、九月一八日に被告会社を訪れ、同月一九日付けの退職届を提出した。

したがって、原告に対する九月分給与額については、原告が八月度の業績評価表を被告会社に提出せず、勤務成績も不良だったため、同月度の業績評価は零点で業績給は零となり、基本給部分については、九月分の賃金の計算期間である八月二一日から九月二〇日までの要出勤日数二一日に対する原告が退職した九月一九日までの出勤日数三日間の日割計算により(新賃金規則一八条、三三条)、二万三五七一円を支給したものである。

(二) 予告手当

被告会社は原告に退職するよう迫った事実はなく、原告は任意に退職したものであり被告会社は予告手当支払義務を負わない。

(三) 被告会社の債務不履行又は不法行為による損害賠償義務の存否

原告と被告会社間の本件雇用契約時における裁量労働制とは、原告が成果を上げれば勤務時間については厳格に管理しないというにとどまり、裁量労働であっても、一日九時間の就労義務を負っていた。

ところが、原告の就業時間は極端に少なく、出勤してもシンクソフトの開発業務に従事することなくプールに泳ぎに外出するなど勤務を懈怠する態度がはなはだしく、成果も皆無であった。

被告会社は前記のとおりのデモンストレーション失敗後の財政状況を立て直し、会社を活性化するため、就業規則及び賃金規則の改定を行い、就業時間についてはとくに功労のある従業員のみについて裁量労働制を採ることとし、賃金については、成果主義に基づく月俸制を導入したものであるが、いずれの新規定も規定内容の相当性、被告会社における変更の必要性及び改定の経緯等からして合理的なものであり、原告は変更に同意しないことを理由としてその適用を拒むことはできない。また、原告の退職は原告自身の意思に基づくものであるから被告会社の行為には債務不履行又は不法行為の損害賠償責任を基礎づける違法性が存在しない。

(四) 被告取締役三名の商法二六六条の三に基づく損害賠償義務の存否

被告取締役三名が被告会社の業務を行うについて任務を懈怠した事実はない。被告会社の財政状況が平成九年六月以降急速に悪化したのは、前記のとおり被告会社の主力商品であるシンクソフトにつき担当者である黒川及び原告らの能力不足から開発が遅れ、投資家に対するデモンストレーションに失敗したためであり、原告の主張は理由がない。

第三争点に対する判断

一  証拠によれば以下の各事実が認められる(認定事実末尾に掲記した証拠の外、<証拠・人証略>。事実の日時は特に記載したものを除き、いずれも平成九年である。)。

1  原告は、昭和六一年三月に大学を卒業後、富士通ソーシアルサイエンスラボラトリに就職し、システムエンジニアとして勤務していたが、平成五年九月に退職し、理学療法士の資格をとるため平成六年四月都立医療短期大学に入学し、平成八年六月ころから被告会社にコンピュータープログラムの実作業のアルバイトとして勤務し、黒川の下で被告会社が大学法学部の研究室から受注した法律エキスパートシステムについての修正及び機能追加の業務に従事していた(<証拠略>)。

2  その後、被告会社は、平成九年四月から原告を正社員として採用することとなり、黒川が原告に被告会社への就職を打診した(<証拠・人証略>)。

原告は、四月一五日に理学療法士の試験に合格して資格を取得することを条件としてその翌日から病院に勤務することが決まっていたため、本件雇用契約締結の際、被告代表者に対し、午前中は病院に非常勤で勤務するので午後しか出社できないが被告会社に勤務することが可能であるか確認したところ、被告代表者は裁量労働制の労働条件であるから大丈夫であると述べた(原告本人)。原告は、被告会社への入社に際し、平成九年五月七日付けで就業規則に従う旨の誓約書を提出した(<証拠略>)。

3  原告は被告会社入社後、研究開発部に所属し、黒川研究開発部長の下でソフトウェアの研究開発業務に従事した。研究開発部は黒川と部員四名の合計五名の部署であり、原告ともう一名の三嶋理美が被告会社と年俸制の雇用契約を締結して採用されていた。

三嶋理美は、平成九年三月二八日、被告会社との間で、賃金が月当たり四〇万円(年俸六八〇万円)及び六月分ボーナスは寸志とされている他は原告と被告会社間の本件雇用契約と同一内容の雇用契約書を作成して雇用契約を締結した(<証拠略>)。

4  原告は被告会社の正社員となった後も引き続き法律エキスパートシステムについての修正及び機能追加の業務を担当していたが、平成九年四月中旬ころ発注者から開発業務の履行が不十分であるとの抗議があり、被告会社は業務を外注に出すこととしたが、外注先はそれまでの業務が不十分であるとして多額の報酬を請求し、開発業務の請負代金を外注先への支払が上回ってしまう状態となった。

5  被告会社は、平成九年一月ころ、今後投資家から投資を受け、また、販路を拡大するために、入力データの中からある程度あいまいな質問にも回答したり、先に行った対話内容を記憶して成長するような対話システムとして実用的に使用できるソフトとしての「シンクソフト」を五月末までに商品化し、六月にデモンストレーションを行う計画を決定し、その開発に力を注ぐこととした(<証拠・人証略>)。

6  被告会社は、六月五日及び六日にシンクソフトの投資家向けのデモンストレーションを行うことを予定し、五月二〇日付けで六月五、六日に被告会社の上野事務所で音声入力による対話ツールを展示する旨の案内状を配布した(<証拠略>)。

しかし、開発を担当していた黒川及び原告の所属する研究開発部ではデモンストレーション期日までに想定した機能を有するシンクソフトを完成させられず、デモンストレーション当日は、データベースソフトと音声認識ソフトを組み合わせ、音声での問いかけに対しデータを回答するプログラムの展示を行ったが、当初想定したあいまいな質問にも回答したり、対話内容を記憶して成長するような対話システムとしての機能を有するソフトではなかったため、デモンストレーションとしては失敗に終わり、来訪した投資家らの評価も厳しく、新たな投資は得られない状況となった(<証拠・人証略>)。

7  被告会社の平成八年七月一日から平成九年六月三〇日までの決算では売上高が三三五万五〇〇〇円で経常損失は七二一六万九〇〇〇円であり(<証拠略>)、被告会社設立後、平成九年六月までの期間で被告会社の製品で売れていたものはなく(<人証略>)、平成九年六月当時の被告会社の一か月の従業員給与及び事務所賃料等の固定経費は約一一〇〇万円であったため、被告会社の財政状況は平成九年六月以降急速に悪化し、倒産の危険もある状況となった。

8  そこで、被告会社は、財政状況を建て直し、かつ、成果の上がった従業員についてその成果に応じた給与を支給することにより従業員の勤労意欲を高め、顧客の要求に即応した製品開発をすることができるよう被告会社を活性化するため、就業規則及び賃金規則を改定することとし、取締役に幹部従業員を加えて検討した結果新就業規則及び新賃金規則を決定し、これに対し平成九年八月一日当時の被告会社のアルバイト及び顧問を除く一二名の従業員中、原告及び三嶋理美以外者(ママ)全員が同意書を提出し、三嶋理美は口頭で同意した(<証拠・人証略>)。

9  被告会社の旧就業規則は就業規則の適用を受ける社員につき、「1条この規則は社員の就業に関する事項を定める。社員のほか、その名称のいかんを問わず会社の業務に従う者は、この規則の全部又は一部を準用する。」及び「2条 社員とは4条の手続を経て雇用期間の定めのない労働契約を締結し会社の業務に従う者をいう。」とし、新就業規則では、「2条 社員とは5条の手続を経て雇用期間の定めのない労働契約を締結し会社の業務に従う者をいう。」と規定し、旧就業規則1条と同様の規定は置かれていない(<証拠略>)。

10  被告会社における就業時間につき、旧就業規則は「6条 一日の就業時間は個別の労働契約により異なる。ただし休憩時間は一時間とする。尚、原則として1.始業時間は午前9時、2.終業時間は午後5時とする。」、「7条 業務の都合で1週間当たりの労働時間が四〇時間を超えない範囲で前条の就業時間と異なる勤務をさせることがある。別に定める範囲の社員の勤務は裁量労働制による。」と規定しているが(<証拠略>)、裁量労働制が適用される社員の範囲が定められたことはなく、旧就業規則7条にいう別規定は被告会社には存在しない(<証拠略>)。

また、被告会社の従業員で裁量労働制によるとする内容の雇用契約が合意されたのは原告及び三嶋理美つ(ママ)いてのみであった。

新就業規則は「10条 勤務態様は、本人の適性と就業業務により、次の各号のいずれかを設定する。(1) 所定時間勤務制 試用期間中のもの及び特に会社が定める者に適用する。(2) 裁量時間勤務制 一般社員に適用する。(3) 裁量勤務制 原則として、会社に著しく貢献のあった者に適用する。」、「11条2項 裁量時間勤務制においては一日につき九時間就労したものとみなし、原則として午前九時から午後五時までを拘束する。休憩時間は、原則として正午から午後一時までの一時間とする。」旨規定した(<証拠略>)。

11  被告会社の賃金体系につき、旧賃金規則は、「2条 賃金の体系は、1.一般勤務 本給、家族手当、住宅手当、不就業手当、時間外勤務手当、2.裁量労働勤務 本給、家族手当、住宅手当、不就業手当、業務手当」と規定していたが、本給等の具体的金額についての規定はなく、賞与についても規定が存在しなかった(<証拠略>)。

一方、新賃金規則では、「4条 就業規則第10条に示す勤務態様により、それぞれ次の各号の賃金制度を適用する。(1) 日給月給制 所定時間勤務制度を適用する者。(2) 月俸制 裁量時間勤務制度を適用する者。(3) 年俸制裁量勤務制度を適用する者。」とし、第4節臨時賃金(賞与)中の規定としては「21条 業績基礎給は、次により支給する。(1)月平均賞与基礎額(基本給に対象期間中の所定外賃金の月平均額を加えた額)の二・五か月分をベースとし、これに評価期間の業績計数を乗じたものを一回分として支給する。年に二回合計五か月分を支給する。」、「22条 業績貢献給は、経常利益が出た場合、この三分の一を総原資にあて、これを各社員の業務目標の達成状況や貢献度などに応じて支給する。」との定めがされている(<証拠略>)。

12  平成九年六月に被告会社が従業員に支給した賞与額は、二万円三名、三万円二名、四万二〇〇〇円、五万円、六万四〇〇〇円及び七万円(原告)各一名、八万円二名(一人は三嶋理美)、一〇万円一名(被告龍惠子)並びに一四万円一名(黒川)であった(<証拠略>)。

13  原告の入社後の被告会社での就業時間は、平成九年四月二一日から五月二〇日までの一か月が約七三時間、五月二一日から六月二〇日までが約一二一時間、六月二一日から七月二〇日までが約一一〇時間と、他の従業員が通常月一八〇時間程度であるのに比して少なかった(<証拠・人証略>)。また、原告は、出勤した後にプールに泳ぎに外出することもあった(<人証略>)。

14  原告は、新賃金規則の下で平成九年八月分給与(八月二六日支給分)の業績給を決定するための業績評価資料として同年七月度の自己評価表を被告会社に提出したが、被告代表者が内容が不十分であるとして訂正の上再提出するよう求めたところこれに応じず、被告会社の評価としては一〇〇点中四四点の評価となった(<証拠略>)。新賃金規則による平成九年八月分の支給賃金については、原告の賃金額は大幅に減少したが、他の従業員については賃金が減少した者と、増額した者とがあった(<証拠略>)。

さらに原告は、九月分給与(九月二六日支給分)の業績給を決定するための八月度の被告代表者との面接については、当初予定されていた八月四日の期日が被告代表者の予定により変更となった後、被告代表者からの面接を受けるようにとの指示を拒否し、八月一〇日付けの電子メールで、被告代表者に対し、被告会社に入ったのは黒川に仕事を手伝って欲しいと言われたからであり、被告会社自体に対してはいかなる目標も持つことはできない、被告代表者が一方的に面接の予定を反故にしたのであるからその後面接に来ないという理由で原告の評価を最低にするのであれば仕方がない、今後も目標管理をするつもりも面接を行う気もないとする内容の文書を送った(<証拠略>)。

15  原告には、年次有給休暇として二〇日間が与えられていたが、原告は、八月二八日、体調不良により欠勤するとの理由で同月二九日から同年九月一九日まで被告会社の休日を除く一五日間を年次有給休暇と指定する旨の休暇届を提出した。その際、原告は、被告佐藤から黒川部長の承認印をもらえば良いとの指示を受け、黒川から右休暇届に承認印を押捺してもらい、その後同年八月二九日から九月七日まで欠勤したが、右期間において午前中理学療法士として勤務する病院には出勤していた(<証拠・人証略>)。

16  被告会社は、従業員各自に対し、九月一日付けの書面により、目標管理表等を作成して九月四日までに提出するよう指示する文書を配布し、原告にも右書面が交付されたが、原告は目標管理表等を提出しなかった(<証拠略>)。

17  被告佐藤は、九月四日付けの消印のある書簡により、原告に対し有給休暇申請は認められないとして、被告会社危急存亡の折りであるから出勤して職務について被告代表者と話し合うよう求め、話合いが妥結しない場合は諭旨退職となるとして依願退職を勧める内容の文書を郵送した(<証拠略>)。

18  そのころ、被告会社は書面により、原告に対し、有給休暇届は受領できないとし被告代表者に連絡するよう求め、八月一九日に被告会社の組織が変更され原告は黒川が部長を務める第二開発部ではなく被告代表者が部長である第一開発部の所属となったから被告代表者から業務命令を受けるべきこと、原告申請の有給休暇については受注に結びつく開発がピークの時点では休暇を認められないので九月一〇日までを期限としてただちに出勤するよう指示し、併せて至急被告代表者と連絡を行うこと、それまでは欠勤扱いとすること、退職する場合は九月一〇日付け退職届を提出しそれまでは出勤して業務に従事すること、出勤しない場合は懲戒解雇とすることを通知し、退職届のひな形及び新たな組織図、新就業規則を添付文書として送付した(<証拠略>)。

19  九月八日、原告は被告会社に出勤し、被告代表者及び被告佐藤と面談したが、その際、被告代表者は原告が被告代表者を責任者とする第一開発部に配置替えになったこと及び被告会社としては原告を必要としているので今後は被告代表者の指示に従って業務を行うべきこと、及び就業規則の改定にともない裁量労働制は廃止されたので一日八時間の勤務が必要となるが原告は病院勤務があることから午後から出社して八時間勤務することでも良いとの提案を伝えるなどしたが、原告は自分は黒川以外の者の指示には従わないと述べ話合いはまとまらなかった(<人証略>)。

20  黒川は九月一〇日付けで被告会社の取締役を退任し、被告会社を退職した(<人証略>)。

21  九月一一日ころ、原告は被告佐藤及び被告会社山本経理部長と話合った際、原告としては退職するとの意思を表示し(<人証略>)、その後、被告会社は九月一六日付け書面により、原告に対し、原告から退職届を提出するとの連絡を受けたが未着であるので至急提出するよう求め、一九日までに届かない場合は懲戒解雇とする内容の通知を郵送した(<証拠略>)。

原告はその後九月一七日まで欠勤を続け、九月一八日に被告会社を訪れ、同月一九日付けの退職届を提出した(<証拠略>)。

二  以上認定した事実及び前記争いのない事実により争点につき判断する。

1  原告に対する新就業規則及び新賃金規則の適用

まず、本件において、原告が新就業規則及び新賃金規則の適用を受ける社員に当たるかどうかについてみるに、前記認定のとおり、原告は本件雇用契約締結に際し旧就業規則を遵守する旨の誓約書を被告会社に提出しており、旧就業規則の規定上も会社の業務に従う者すべてに旧就業規則が適用される旨規定していることから、原告は旧就業規則の適用を受ける社員に該当するというべきである。これに対し、新就業規則は、その適用対象たる社員の定義として、期間の定めのない労働契約を被告会社と締結した者をいうとしているのに対し、原告が被告会社と締結した本件雇用契約は期間一年のものであるが、被告会社には新就業規則以外に期間の定めのある雇用契約を締結した従業員に適用される就業規則は別に存在しないこと、また、新就業規則は旧就業規則の就業形態及び賃金体系に関する定めを改定する趣旨で規定されたものであるのに過ぎないこと等の各事実に照らせば、本件雇用契約が期間一年の雇用契約とされているとしても、原告は新就業規則及び新賃金規則の適用対象である社員に該当すると認めるのが相当であるといえる。

2  未払賃金債権の存否

(一) 賃金月額の変更の可否

被告会社は、平成九年八月分の原告に対する給与は新就業規則に基づいて変更された賃金額を支払済みであり、未払分は存在しない旨主張する。

前記認定のとおり新賃金規則の適用により被告会社の従業員のうちで賃金額が減少した者と増額した者とがあるが、賃金減額を生じうる変更である以上、新賃金規則への変更は就業規則の不利益変更に該当するものと認めら、このように就業規則の改定によって労働者に不利益な労働条件を一方的に課することは原則として許されないが、当該条項が合理的なものである限りこれに同意しない労働者もその適用を拒むことはできないというべきである。

本件において、被告会社が就業規則及び賃金規定を改定した経緯は、前記認定のとおり被告会社が主力商品として開発していたシンクソフトについて平成九年六月五日及び六日に行った投資家向けのデモンストレーションが失敗に終わり、投資家からの投資が得られない状況となった一方で、被告会社の平成八年七月一日から平成九年六月三〇日までの決算は売上高が三三五万五〇〇〇円で経常損失は七二一六万九〇〇〇円であったこと、被告会社設立後平成九年六月までの期間で被告会社の製品で売れていたものはないこと及び同年六月当時の被告会社の一か月の従業員給与及び事務所賃料等の固定経費は約一一〇〇万円であったこと等の各事実により被告会社の財政状況は同年六月以降急速に悪化し、倒産の危険もある状況となっていたため、ソフト開発会社として設立後間もないいわゆるベンチャー企業である被告会社が、財政状況を建て直して経営破綻を免れ、かつ、成果の上がった従業員についてその成果に応じた給与を支給することにより従業員の勤労意欲を高め、顧客の要求に即応した製品開発を実現できるよう賃金制度を成果主義に基づくものにすべく、就業規則及び賃金規則を変更する必要性があったことに基づくものと認められる。そして、右変更については原告を除く他の正社員全員が変更に同意している事実も認められるところである。

しかし、本件においては、原告と被告会社は期間を一年とする本件雇用契約により、旧賃金規定の支給基準等にかかわらず、支払賃金額は月額三六万五〇〇〇円、年俸額六二〇万円の確定額として合意をしているのであり、このような年俸額及び賃金月額についての合意が存在している以上、被告会社が賃金規則を変更したとして合意された賃金月額を契約期間の途中で一方的に引き下げることは、改定内容の合理性の有無にかかわらず許されないものといわざるを得ない。

したがって、原告は被告会社に対し、平成九年八月分の未払賃金二〇万円の支払請求権を有するものと認められる。

(二) 平成九年六月分未払賞与請求権の存否

本件雇用契約においては、「ボーナスは業績還元方式を採用。ただし、五か月分/年(六月、一二月)を想定」との合意がされており、被告会社はこの点につき、「業績還元方式」の内容は、決算期ごとに税引前利益の三分の一の金額をボーナスとして従業員に分配し、利益が出なければ従業員にボーナスは支給されないものであり、被告代表者も、原告に対してその旨説明済みであり、平成九年六月期の被告会社の決算においては、全く利益がなかったが、被告会社は、従業員の士気を高めるため、同月に特別に寸志を支給したのみであり、原告は、平成九年六月の賞与請求権を有しないと主張する。

なるほど前記認定のとおり、平成九年六月当時の被告会社の旧賃金規則には賞与に関する定めはなく、他の従業員に対しても二万円から一四万円のみの支給がされている事実が認められる。

しかし、本件雇用契約は、年俸額を六二〇万円と合意した内容のもので、「年俸」の文言は一年間に支給される賃金額をいうものと解すべきであるから、本件雇用契約の合意内容は年俸額の一七分の一二を月当たりの賃金として支払い、残りの五か月分については、賞与二回分合計の最低保障として確定的に支給する旨を合意したものと解するのが相当である。

ただし、本件雇用契約の文言上は六月賞与として二・五か月分の支給をするとの記載はなく右内容の合意がされた事実を認めるに足りる証拠はないものの、年俸額が確定額で定められ、賞与として五か月分を二回に分けて支給するがその計算方法に特段の合意がない場合に契約期間途中で退職した原告の賞与請求権については、少なくとも契約期間中勤務した日数により按分した額の具体的支払請求権を有すると認めるのが相当というべきである(大阪地方裁判所平成一〇年七月二九日判決・労働判例七四九号二六頁参照)。

したがって、原告は被告会社に対し、賞与五か月分一八二万五〇〇〇円につき、三六五日分の一七二日(四月一日から退職した九月一九日までの在職日数)の割合による八六万円の賞与請求権から、支払済みの七万円を控除した残金七九万円の支払請求権を有するものと認められる。

(三) 欠勤控除の当否

前記一15認定のとおり、本件においては、原告が平成九年八月二八日、同月二九日から九月一九日までを年次有給休暇と指定する旨の有給休暇届を提出したのに対し、被告会社の黒川部長がこれを承認して時季変更権を行使しないこととしたものであるから、原告の有給休暇は有効に成立したものというのが相当である。ただし、原告の休暇取得中の九月四日ころに被告会社が休暇は承認しない旨の通知をしており、これが被告会社による時季変更権の行使として有効であるか否かについてみるに、被告会社は時季変更の理由として業務の繁忙を主張しているが、本件記録上、原告の休暇取得により客観的に被告会社の事業の正常な運営に支障が生ずるような事情は認められないから、被告会社の時季変更権の行使は効力を有しないものといえる。

したがって、原告のした有給休暇届により年次有給休暇は有効に成立したものと認めるのが相当であり、被告会社のした欠勤控除は違法無効であるから、原告は被告会社に対し、九月分基本給二三万一一六六円(ただし本件雇用契約により合意された三六万五〇〇〇円に対する三〇日分の一九日の日割り計算による金額)から支払済みの二万三五七一円を控除した二〇万七五九五円の支払請求権を有すると認められる。

3  予告手当支払請求権の存否

原告は、被告会社が原告に対し一方的に本件雇用契約の定める労働条件の変更及び賃金の引下げを主張し、これに服しない場合は退職せよと迫ったものであり、原告を解雇をしたのと異ならないとして、解雇予告手当の支払を求めている。

この点については、前記認定の各事実からすれば、原告は、平成九年八月一〇日の時点ですでに被告代表者に対し被告会社自体については目標が持てないと述べるなどしており、その後九月一〇日には原告がアルバイト時代から直接の部下として仕事をしてきた黒川部長が被告会社を退職したことなどから、原告自身、被告会社に勤務する意欲を喪失し、九月一八日、自らの意思に基づいて退職届を提出して被告会社を任意に退職したものというべきであり、被告会社が原告を解雇した事実は本件記録上これを認めるに足りる証拠はなく、原告の主張を採用することはできない。

4  被告会社の債務不履行又は不法行為による損害賠償義務の存否

原告は、被告会社が本件雇用契約の合意内容にかかわらず就業規則及び賃金規則を一方的に変更し、原告に対し新就業規則及び新賃金規則を適用するとして賃金額を引き下げ原告の承諾し得ない勤務時間への変更を求め、さらに違法な退職勧奨を行った債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償を求めているので以下に検討する。

(一) 被告会社が賃金規則を変更した経緯については前記2(一)のとおりであり、本件においては被告会社が賃金規則を変更する必要性が認められ、前記新賃金規則の規定内容自体も成果主義賃金制度として不相当な規定とは認められず、原告以外の他の正社員も新賃金規則に同意している事実が認められるから、これらの事実を総合すれば、本件雇用契約により合意された賃金額を新賃金規則によって引き下げることは許されないとしても、被告会社が会社の経営危機を理由として、原告に対し変更後の新賃金規則の適用に応じるよう求めること自体には違法性は認められず、また、被告会社が本件雇用契約により合意された原告の賃金額を違法に引下げて支給した点については本件判決により被告会社が引下げ分の支払を命じられることにより損害はてん補されるものと認められるから、被告会社の右各行為につき債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償義務は存しないというべきである。

(二) 原告と被告会社は本件雇用契約において勤務形態は裁量労働とする旨の合意をしているが、被告会社の旧就業規則では裁量労働制に関する規定が置かれているものの、事業場の過半数代表者との間で、裁量労働の対象業務、当該業務の遂行に必要とされるみなし時間、当該業務の遂行の手段及び時間配分の決定等に関し具体的な指示をしないこと並びに有効期間の定めにつき書面による労使協定がされた事実は存在せず、協定内容が労働基準監督署長に届け出られた事実もない。すなわち、被告会社は労働基準法三八条の三所定の裁量労働制を採用する法定の要件を満たしていないものである。

この場合、本件雇用契約における原告と被告会社間の「裁量労働とする」旨の合意の内容は、前記各認定事実に照らせば、原告が被告会社に勤務するについて、午前中は病院に勤務することが可能となるように原告の勤務開始時間を午後からとするが、「みなし時間」についての合意はしないまま、担当業務の遂行に必要な相当時間勤務することを前提として原則的な労働時間の算定をせずに賃金を支払う趣旨の合意がされ、実際にも原告及び被告会社双方において労働時間の算定につき異議なく推移してきたものというべきである。そうすると、新就業規則の下でも、原告は被告会社に対し、本件雇用契約の合意内容である午後からの勤務を主張しうるものと認められるが、一方で当事者間の合意として労働時間については確定的な合意がされているとは認め難いことから、前記のとおり被告会社が原告に対し就業規則の変更に伴い新就業規則に基づく勤務条件による勤務又は他の社員と同一の労働時間につき現実に就業するよう求めたとしても、被告代表者が午後からの勤務でも良いとの提案もしていることを併せ考慮すれば、これをもって被告会社の行為が債務不履行又は不法行為に該当すると認めることはできないというべきである。

(三) さらに、前記認定の被告会社の経営状況、原告の勤務状況及び被告会社と原告との交渉経緯等の各事実を総合すれば、被告会社が原告に対し退職を勧奨したことにつき違法性は認められず、原告が自らの意思に基づいて退職したものと認められるのは前記のとおりであるから、被告会社の不法行為又は債務不履行に基づく損害賠償義務は認められないものといえる。

5  被告取締役三名の商法二六六条の三に基づく損害賠償義務の存否

原告は、被告取締役三名は、悪意又は重大な過失により被告会社の取締役として任務を懈怠し、被告会社の財政を危機的状況に悪化させ、入社後四か月で原告の承諾し得ない労働条件に一方的に変更し、原告に対する給与及び賞与の支払を違法に減額し退職を余儀なくさせた旨主張するが、被告会社の財政状況が平成九年六月に危機的な状態となったのは、前記認定のとおり設立後間もないいわゆるベンチャー企業である被告会社が主力商品であるシンクソフトのデモンストレーションに失敗して投資家からの投資が得られなくなったことが主たる原因であるものと認められ、本件記録上、被告取締役三名が被告会社の経営を怠ったことにより被告会社の経営を悪化させた事実を認めるに足りる証拠はない。

したがって、被告取締役三名は商法二六六条の三の規定により原告に対し損害賠償義務を負うものとは認められない。

三  以上のとおりであるから原告の請求は主文掲記の限度で理由があり、その余の請求はいずれも理由がない。

(裁判官 矢尾和子)

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